歴史を知る
- 明治33年7月、元陸軍軍医監菊池篤史が大阪市北区絹笠町に私立病院を開設したのが当院の始まりである。
「一視同仁、博愛慈善」の院是はこの時に定められた。
当時の建築は木造3階建て、総坪数415坪余り、病室は82室で、104床の収容能力があった。
後に、この付近は中之島図書館、公会堂、大阪市役所などが出来て、大阪の中心地となった。
外科と内科からのスタートであったが、明治37年、戦争で世情不安が高まる中、小児科を新設した。
大阪で正式に小児科のみを標榜したのは、おそらく回生病院が初めてと思われる。
明治41年には耳鼻科を新設、明治42年 「天満焼け」により類焼したが、直ちに再建に取り掛かり、翌年本館が建てられた。
明治45年には内科、外科、小児科、耳鼻科、婦人科を標榜し、大阪市内で初めての私立総合病院となった。
大正 2年、再び災火により本館を焼失し、大正4年再々建された。
大正15年6月には、株式会社大阪回生病院に組織を変更してその医業が許可されている。
個人病院が株式会社を組織するのは、きわめて特殊な例であり、
これには当時の菊池米太郎院長の「病院は数名の一族のみで行うものに非ず。
多くの人に資金を得てなすべき」という考えがあったためである。
- 昭和9年1月1日に株式会社大阪回生病院より、
「土地・建物を所有しこれを賃貸する株式会社回生堂」と「利益を配当しないことを定款の第一条に掲げて、
傷病者の診療看護を目的とする株式会社互恵会」を分離するなどの組織改編を経て、
日本で珍しい株式会社 互恵会 大阪回生病院が誕生し、現在に至っている。
また昭和10年1月に、神経科、眼科を、同年11月に歯科を開設し、
ここに株式会社互恵会 大阪回生病院が名実ともに総合病院として誕生した。
戦後急速に近代化が進む中、病院の若返りと合理化を目指しコンピューターの導入の検討に入った。
当時は全く耳慣れないことで、導入については院内の大半が反対であったが、
導入検討から約3年が経過した昭和47年、全国の病院にさきがけて窓口業務のオンライン化を実施した。
昭和52年には時代の要望である人工透析室を設置。また昭和55年には回生看護学院を開校(平成18年閉校)した。
- 平成に入り、「より付加価値が高く、魅力的で、独自性の強い病院を目指そう」との主旨で、
平成9年に日本で2番目となる睡眠医療センターを開設、睡眠時の障害を各科が協力して総合的に治療を進めていく、
新しい睡眠時障害の治療として脚光を浴びた。
また平成12年には、他の病院や地域の開業医の先生方との連携をより強固なものにするため
地域医療連絡室、医療相談室を設置するなど、民間病院としての特色ある医療とケアとフォローが
一体となった付加価値の高い病院としての構造を整えている。
平成17年、総合病院から急性期病院へと変革すべく現在の新大阪の地に新築移転を行った。
二次救急の受入センター機能による診療内容の専門化、早期リハビリの充実、
そして紹介型入院医療の重視へと大きく方向転換を果たした。
また、新病院はPETを利用した人間ドックにも注力している。
平成24年には 7:1看護配置基準、平成27年1月より「地域包括ケア病棟」を開設し、
新大阪の地域に根差し、地域の方々に求められる病院を常に目指している。